出張多めに生きてます。

泥んこで野良猫育ちマーケター、tony togoの生態。

ハイコンテクスト社会日本の崩壊

auの桃太郎と金太郎と浦島太郎という「三人の太郎」が集まって話す設定のCMが人気だそうです。


TVCM au「あたらしい英雄・桃太郎」篇 60秒 - YouTube

 

ペプシネックス小栗旬の桃太郎)のパクリっぽい世界観で安易な企画だなー、と思っている方も多いかも知れません。

 

いずれも若者がターゲットと思われるCMなわけですが、なぜいま昔話モチーフなのでしょうか?単なるパクリクリエイティブなのでしょうか?

 

ちょっと時間を巻き戻しましょう。

小室ファミリーが売れまくっていた90年代までは、メディアの王様は地上波テレビ(それ以前は映画だったり、新聞だったり)でした。選択肢はNHKが2、民放が5。最大7の選択肢です。

国民が同じ情報に接して、同じ体験を(擬似的に)共有していました。

 

例えば、「三時のおやつは?」と問われれば「文明堂」だったし、「腕白でもいい」と問われれば「逞しく育って欲しい」だったんです。

とても乱暴に言うと、国民全体が阿吽の呼吸で成り立つ「超ハイコンテクスト社会」だったはずです。

 

さて、現代。インターネットとそれから派生したC2C的コミュニュケーション手段の爆発的普及によって膨大な情報が日々やりとりされるようになりました。

こうなると、共有体験はどんどんニッチになって参ります。

地上波テレビもどんどん視聴率を下げ、既成品のコンテンツよりも生のやりとりをそれぞれの興味で消費する時代です。

 

「昨日何が有った?」という問の答えは人それぞれに違うのが当たり前の時代です。

 

そんな時代のCMは大変です。CMの常套手段として「親しみを作り出す」ってのが有ります。とにかく媒体費積みまくって死ぬほどCMを流せば知らない人やモノでも親しみが生まれる(セブンヒッツ理論とか呼ばれてます)のですが、それではカネがかかって仕方がない。

 

だから、古今東西みんなが知ってる文脈を上手く設定にはめ込んでくるんですな。

違和感なく観てもらえるように「経験を呼び覚ます」と、なぜか親しみが湧くのです。

 

昭和40年代だとこんな感じでしょうか?


NIWAKA SENPEI TV CM - YouTube

腕白小僧が友達に謝りに行くというシチュエーション。

今だったら相手の親に訴えられちゃうか、少なくとも親同伴で謝りに来ないとダメです。

 

昭和時代と異なり、日常生活における共有体験が人それぞれ違いすぎて、共通点は「日本語が理解できる」というレベルまで分散しているのが現代社会。

 

そこでCM業界の方々考えました。「昔話があるじゃん!」って。

昔話だったら、日本の教育を受けてたらどこかで触れているはずの鉄板コンテンツですから。特に桃太郎、金太郎、浦島太郎くらいビッグスターならば。

これが、三年寝太郎だとチト厳しいかもしれない。

 

まぁ、こんな感じでauのクリエイティブがプレゼン通ったのだと思いますよ。決してパクリではないはずです。

 

昔話CMは、コンテクスト利用の極端な例はありますが、多くのCMが「季節感」だとか「空腹感」、「商品ターゲット特有の経験」を上手く表現して「感情を呼び覚ます」ことをしています。どんな感情を利用しているか?ということを考えてCMを観るのも楽しいですね。